188殉教福者の記念ミサ@鎌倉黙想の家

鎌倉黙想の家は日本殉教者修道院といいますが、先般列福されたペトロ岐部と187殉教福者を守護の聖人としています。

この黙想の家の記念の日として、188殉教福者の記念日7月1日に一番近い日曜日にお祝いのミサを奉げていますが、今年は7月4日に行われました。

その時の、イエズス会管区長補佐梶山義夫神父様のお説教です。

この黙想の家の目的、それは、神の国はあなた方に近づいた、と告げることです。神の国を、この黙想の家で体験することです。

現在の社会の中で、ふたつの要素が特色と言っていいかもしれません。ひとつは、聖なるものに対する感覚というものが弱くなっている。あるいは、弱くなっているだけではなくて、混乱すらみられる、ということです。もうひとつの点は、平等社会という中で、ひとりひとりを結ぶ絆というものが断ち切られていく、ひとりひとりがなにか、漂っている、そのような状況。

そのような中でこの黙想の家が果たす役割が問われているのは大きいです。ここを訪れる人が、人間に本来備わっている聖なるものに対する感覚、祈る力、といったものを本当に発揮していく。聖イグナチオの霊操、それは魂のエクササイズです。祈る能力は、誰にでもあります。しかし、それがあまりにも発揮されていない、訓練されていない。やはり、正しい方法でしっかりと、その能力というものを高めていく。それが今の社会に対する私たちの責任のひとつでしょう。

もうひとつは、ひとりひとりが漂っている、さまよっている、ばらばらになっている。そのような中で、本当に人と人との絆、心と心のつながり、魂の響きあい、そういったものをここでつちかっていく、そういう交わりの場でもあります。その交わりは、沈黙と対話というかたちで行われるでしょう。ほんとうに心と心の対話をするための沈黙、沈黙を前提とした対話というものがここで行われていけばいいと思います。

このような神の国を証しする、そのための条件はなにかというと、今日の朗読、福音書の朗読、(ルカ10章1-9節)主はご自分が行くつもりのすべての町や村に、二人ずつ、先に遣わされた、「二人ずつ」ということです。ひとりでの証しは意味がありません。

その意味で、この黙想の家は、今のかたちになって、より証しができるようになったと私は考えています。CLCの方々、様々な協力者の人たちと、イエズス会員が一緒に遣わされていく。そこで私たちが神の国の素晴らしさを証ししていくわけです。

私たちが、この黙想の家で携わる。違うものだからこそ、お互いにわかち合いながら、お互いを大切にしながら、この黙想の家を支えていくことによって、ここを利用される様々な方々が、聖なるものへの感覚を養い、本当の交わり、絆を築かれる人に成長していくことでありましょう。

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