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	<title>祈りのてほどき</title>
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	<description>どうやって祈ったらいいのか、どんな祈りの方法があるのかご紹介します</description>
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		<title>第6回　短い聖句を唱える祈り－4．自分なりのみ名の祈りを決める</title>
		<link>http://www.ignchurch.info/inori/archives/199</link>
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		<pubDate>Sat, 13 Nov 2010 05:30:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>inori</dc:creator>
				<category><![CDATA[その他]]></category>

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		<description><![CDATA[4．自分なりのみ名の祈りを決める この祈りをある本で紹介したところ、読者から１つの手紙をもらった。 それには、「主よ、憐れみたまえ」を繰り返していると、力が湧いてこないで、何か気持ちが沈むような気がするというものだった。 たしかに朝起きて、仕事に出かけるとき、さあやろうという前向きな気持ちをもり立てているときに、ただ「憐れみたまえ」では、やる気がそがれてしまう人がいるだろう。もしかしたらこの言葉は、ロシアのように冬が厳しい気候に適しているが、楽天的な民族にはあまり合わないのかもしれない。 結局は、自分に合う祈りの言葉を使うのが一番よいと思う。 実際のところ、私が大学生時代、最初にこの祈りを習ったときは、「オー、イエズス」という文言を繰り返すというものだった。今までいろいろな文言を試してみたが、これを最初にしたせいか、無意識状態になると、いつの間にか「オー、イエズス」に戻ってしまうことが多い。これが自分に合っているのかもしれないし、最初だったのですり込みが一番深いのかもしれない。 いくつかの言葉を試して、合うと思うものを決めて、それを繰り返すがよいであろう。 気持ちが盛り上がるのは、「神に感謝、主に賛美」というものがある（射祷ならば、「主よ、賛美します」、「神よ、感謝します」でもよい）。 これも一時期、かなり唱えたが、感謝と賛美を捧げ続けると気持ちがだんだんと晴れやかになる。また、その時々の気持ちに合わせて、射祷として、「主よ、賛美します」、「主よ、あなたを愛します」、「主よ、あなたにより頼みます」と変化させることもある。その時のありのままの気持ちに合わせるので、自分の心がこもるような感じがする。 なお、東洋の伝統から、繰り返す場合は、呼吸に合わせるのがよい。 私の場合、「オー」というときに息を吸い、「イエ（ズ）スー」というときに息を吐くようにしている。「主よ」というときは息を吸い、「より頼みます」、「賛美します」、「ゆだねます」という方を吐く息にしている。そうすると息を合わさって、心のリズムがとれる感じだ。 歩きながら唱える場合、息と言葉を合わせるだけでなく、歩数も合わせるとよい。息を吸うのに合わせて、２歩から４歩くらい（あるいはそれ以上）。息を吐くときも２歩から４歩くらいに合わせると心のリズムとさらに合うように感じる。 皆さんもさまざまな工夫をして、祈りを深めていってもらいたい。とても簡単で実践しやすいし、多くの恵みが実感できるだろう。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>4．自分なりのみ名の祈りを決める</strong></p>
<p>この祈りをある本で紹介したところ、読者から１つの手紙をもらった。</p>
<p>それには、「主よ、憐れみたまえ」を繰り返していると、力が湧いてこないで、何か気持ちが沈むような気がするというものだった。</p>
<p>たしかに朝起きて、仕事に出かけるとき、さあやろうという前向きな気持ちをもり立てているときに、ただ「憐れみたまえ」では、やる気がそがれてしまう人がいるだろう。もしかしたらこの言葉は、ロシアのように冬が厳しい気候に適しているが、楽天的な民族にはあまり合わないのかもしれない。</p>
<p>結局は、自分に合う祈りの言葉を使うのが一番よいと思う。</p>
<p>実際のところ、私が大学生時代、最初にこの祈りを習ったときは、「オー、イエズス」という文言を繰り返すというものだった。今までいろいろな文言を試してみたが、これを最初にしたせいか、無意識状態になると、いつの間にか「オー、イエズス」に戻ってしまうことが多い。これが自分に合っているのかもしれないし、最初だったのですり込みが一番深いのかもしれない。</p>
<p>いくつかの言葉を試して、合うと思うものを決めて、それを繰り返すがよいであろう。</p>
<p>気持ちが盛り上がるのは、「神に感謝、主に賛美」というものがある（射祷ならば、「主よ、賛美します」、「神よ、感謝します」でもよい）。</p>
<p>これも一時期、かなり唱えたが、感謝と賛美を捧げ続けると気持ちがだんだんと晴れやかになる。また、その時々の気持ちに合わせて、射祷として、「主よ、賛美します」、「主よ、あなたを愛します」、「主よ、あなたにより頼みます」と変化させることもある。その時のありのままの気持ちに合わせるので、自分の心がこもるような感じがする。</p>
<p>なお、東洋の伝統から、繰り返す場合は、呼吸に合わせるのがよい。</p>
<p>私の場合、「オー」というときに息を吸い、「イエ（ズ）スー」というときに息を吐くようにしている。「主よ」というときは息を吸い、「より頼みます」、「賛美します」、「ゆだねます」という方を吐く息にしている。そうすると息を合わさって、心のリズムがとれる感じだ。</p>
<p>歩きながら唱える場合、息と言葉を合わせるだけでなく、歩数も合わせるとよい。息を吸うのに合わせて、２歩から４歩くらい（あるいはそれ以上）。息を吐くときも２歩から４歩くらいに合わせると心のリズムとさらに合うように感じる。</p>
<p>皆さんもさまざまな工夫をして、祈りを深めていってもらいたい。とても簡単で実践しやすいし、多くの恵みが実感できるだろう。</p>
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		<title>第6回　短い聖句を唱える祈り－３ イエスのみ名の祈り</title>
		<link>http://www.ignchurch.info/inori/archives/197</link>
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		<pubDate>Sat, 13 Nov 2010 05:30:13 +0000</pubDate>
		<dc:creator>inori</dc:creator>
				<category><![CDATA[その他]]></category>
		<category><![CDATA[本の紹介]]></category>

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		<description><![CDATA[３．イエスのみ名の祈り そのような繰り返しの祈りは、特に東方教会（正教会）では、「イエスのみ名の祈り」(Jesus Prayer)として、伝統的な祈りのスタイルになっている。 ルカ福音書に２人の印象的な祈りをささげる人が出てくる。 一人は、目を上げようともせず、ただ「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」（ルカ18,13)と唱えながら、真実の悔い改めの心を示した徴税人である。 もう一人は、エリコの近くをイエスが通っていくのを聞いて、ただひたすら「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」（ルカ18,38）と願い続けた盲人である。 この２人の祈りからイエスのみ名の祈りが生まれた。 それは、「主イエス・キリスト、生ける神の子、罪人の私を憐れんでください」という祈りをただひたすら繰り返す祈りである。日本語にすると少し長すぎて唱えにくいので、「主よ、憐れみたまえ」というより短いバージョンで唱えるように私は勧めている。 やり方はものすごく簡単だ。ただひたすらそれを唱えるだけでよい。何十回も、何百回も、何千回も、何万回も、何十万回も、何百万回も、何千万回も、ただひたすらこの祈りを唱え続けるのである。祈りの時間はもちろんだが、歩いているときも、電車に乗っているときも、ありとあらゆる機会にただ唱え続けるのである。 その古典的な実践例は、『無名の巡礼者』という手記になっているので、興味ある方は読んでみられるとよいだろう。体験談なので、非常に参考なる。 この祈りを唱え続けると、自然と神との交わりが深まり、霊的に進化していく。 人によって違うが、以下のようなプロセスを歩んでいく。 最初の頃は、その祈りを唱えると心が静まり、心が神に向かうようになる。 さらに唱え続けると、自分の過去の罪が思い出され、涙が流れるようになる。 さらに続けると、その罪を神さまが赦してくださっているのが実感され、過去の罪が洗い清められるようになる。 さらに続けると、浄化された霊魂にさらに強い神の愛が注がれるようになり、自分がどのような道を歩めばよいか、照らされるようになる。 さらに続けると、神の心と自分の心が自然に一致してくる・・・という風に霊的な道を着実に歩んでいくことができるのである。 これを読むと自分もしてみたいという望みが湧くかもしれないが、もちろんインスタントの道ではない。長い道程の中で、少しずつ与えられる恵みである。 参考図書：ローテル訳『無名の巡礼者－あるロシア人巡礼の手記』エンデルレ書店]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>３．イエスのみ名の祈り</strong></p>
<p>そのような繰り返しの祈りは、特に東方教会（正教会）では、「イエスのみ名の祈り」(Jesus Prayer)として、伝統的な祈りのスタイルになっている。</p>
<p>ルカ福音書に２人の印象的な祈りをささげる人が出てくる。</p>
<p>一人は、目を上げようともせず、ただ「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」（ルカ18,13)と唱えながら、真実の悔い改めの心を示した徴税人である。</p>
<p>もう一人は、エリコの近くをイエスが通っていくのを聞いて、ただひたすら「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」（ルカ18,38）と願い続けた盲人である。</p>
<p>この２人の祈りからイエスのみ名の祈りが生まれた。</p>
<p><strong>それは、「主イエス・キリスト、生ける神の子、罪人の私を憐れんでください」という祈りをただひたすら繰り返す祈りである。日本語にすると少し長すぎて唱えにくいので、「主よ、憐れみたまえ」というより短いバージョンで唱えるように私は勧めている。</strong></p>
<p>やり方はものすごく簡単だ。ただひたすらそれを唱えるだけでよい。何十回も、何百回も、何千回も、何万回も、何十万回も、何百万回も、何千万回も、ただひたすらこの祈りを唱え続けるのである。祈りの時間はもちろんだが、歩いているときも、電車に乗っているときも、ありとあらゆる機会にただ唱え続けるのである。</p>
<p>その古典的な実践例は、『無名の巡礼者』という手記になっているので、興味ある方は読んでみられるとよいだろう。体験談なので、非常に参考なる。</p>
<p>この祈りを唱え続けると、自然と神との交わりが深まり、霊的に進化していく。</p>
<p>人によって違うが、以下のようなプロセスを歩んでいく。</p>
<p>最初の頃は、その祈りを唱えると心が静まり、心が神に向かうようになる。</p>
<p>さらに唱え続けると、自分の過去の罪が思い出され、涙が流れるようになる。</p>
<p>さらに続けると、その罪を神さまが赦してくださっているのが実感され、過去の罪が洗い清められるようになる。</p>
<p>さらに続けると、浄化された霊魂にさらに強い神の愛が注がれるようになり、自分がどのような道を歩めばよいか、照らされるようになる。</p>
<p>さらに続けると、神の心と自分の心が自然に一致してくる・・・という風に霊的な道を着実に歩んでいくことができるのである。</p>
<p>これを読むと自分もしてみたいという望みが湧くかもしれないが、もちろんインスタントの道ではない。長い道程の中で、少しずつ与えられる恵みである。</p>
<p>参考図書<a href="http://www.amazon.co.jp/%E7%84%A1%E5%90%8D%E3%81%AE%E9%A0%86%E7%A4%BC%E8%80%85%E2%80%95%E3%81%82%E3%82%8B%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E4%BA%BA%E9%A0%86%E7%A4%BC%E3%81%AE%E6%89%8B%E8%A8%98-%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AF%E6%96%87%E5%BA%AB-P-Rother/dp/4754402561">：ローテル訳『無名の巡礼者－あるロシア人巡礼の手記』エンデルレ書店</a></p>
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		<title>第6回　短い聖句を唱える祈り－２ 射祷を繰り返す</title>
		<link>http://www.ignchurch.info/inori/archives/195</link>
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		<pubDate>Sat, 13 Nov 2010 05:29:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>inori</dc:creator>
				<category><![CDATA[その他]]></category>

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		<description><![CDATA[２．射祷を繰り返す それをさらに繰り返すこともできる。 心から祈りがわき上がってくると、たった１回だけでなく、何回も繰り返したくなることもある。 あるいは、繰り返すことによって、心が集中し、さらに祈りが深まることもよく体験することだ。 アシジの聖フランシスコが回心の生活を始めた頃、友人のベルナルドの家に泊まった。 ベルナルドは彼と同じ部屋で眠ったが、眠るふりをしてフランシスコの様子をうかがっていた。 フランシスコはベルナルドが眠っていると思って、起きだし、ベッドの前で一晩中祈っていた。ただ「わが主、わが神よ」と繰り返しながら。彼の祈る姿を見て、ベルナルドも回心して、主に従う兄弟になったと言われている。 フランシスコの祈りはトマスの言葉を射祷として、ただ繰り返していただけだった。 フランシスコはあまりに深く神を愛していたので、その言葉を一晩中唱えざるをえなかったのだ 。フランシスコもその一言にさまざまな思いを込めて、一晩中唱えたのだろう。過去の罪に対する悔い改めの心、主への心から信頼、神への熱烈な愛など、さまざまな思いが詰まっていたのだろう。 実際のところ、ゆっくりと繰り返すことによって、だんだんと集中してくることはよくあることだ。 繰り返しながら、心の患いや囚われからだんだんと解放されて、最後には心に平安と愛があふれてくるようになるのだ。 特に不安に襲われたり、心が千々に乱れるときに、射祷を何回も繰り返してみたらどうだろうか。 いつの間にか、心に安らぎが回復してくることはよく経験することだ]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>２．射祷を繰り返す</strong></p>
<p>それをさらに繰り返すこともできる。</p>
<p>心から祈りがわき上がってくると、たった１回だけでなく、何回も繰り返したくなることもある。</p>
<p>あるいは、繰り返すことによって、心が集中し、さらに祈りが深まることもよく体験することだ。</p>
<p>アシジの聖フランシスコが回心の生活を始めた頃、友人のベルナルドの家に泊まった。</p>
<p>ベルナルドは彼と同じ部屋で眠ったが、眠るふりをしてフランシスコの様子をうかがっていた。</p>
<p>フランシスコはベルナルドが眠っていると思って、起きだし、ベッドの前で一晩中祈っていた。ただ「わが主、わが神よ」と繰り返しながら。彼の祈る姿を見て、ベルナルドも回心して、主に従う兄弟になったと言われている。</p>
<p>フランシスコの祈りはトマスの言葉を射祷として、ただ繰り返していただけだった。</p>
<p>フランシスコはあまりに深く神を愛していたので、その言葉を一晩中唱えざるをえなかったのだ</p>
<p>。フランシスコもその一言にさまざまな思いを込めて、一晩中唱えたのだろう。過去の罪に対する悔い改めの心、主への心から信頼、神への熱烈な愛など、さまざまな思いが詰まっていたのだろう。</p>
<p>実際のところ、ゆっくりと繰り返すことによって、だんだんと集中してくることはよくあることだ。</p>
<p>繰り返しながら、心の患いや囚われからだんだんと解放されて、最後には心に平安と愛があふれてくるようになるのだ。</p>
<p>特に不安に襲われたり、心が千々に乱れるときに、射祷を何回も繰り返してみたらどうだろうか。</p>
<p>いつの間にか、心に安らぎが回復してくることはよく経験することだ</p>
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		<item>
		<title>第6回　短い聖句を唱える祈り－１ 射祷（しゃとう）</title>
		<link>http://www.ignchurch.info/inori/archives/193</link>
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		<pubDate>Sat, 13 Nov 2010 05:26:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator>inori</dc:creator>
				<category><![CDATA[その他]]></category>

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		<description><![CDATA[前回は少し難しかったかもしれないので、今回はシンプルな祈り方を紹介したい。 祈りには口祷（口で唱える祈り）と念祷（心の中で思いめぐらす祈り、前回の黙想など）があるが、 口祷の中でも最も単純な祈りを説明したい。 簡単なので、すぐに実践してみたらどうだろうか。 １．射祷（しゃとう） カトリック教会で、「射祷」と呼ばれる祈り方である。短い祈りを口で唱える、ただそれだけである。 例えば、「主よ、来てください」、「マラナタ」、「わが神、わが主よ」、「み旨のままに」、「主よ、あなたを愛します」、「聖霊、来てください」「イエス、助けてください」、「マリア、祈ってください」などである。 いつ、どこででも、心に思いが浮かんできたとき、心の中ででも、口に出してでも唱えることができる。自分の思いを短い言葉に込めて、まさに矢を射るように、神の心に直接訴えかけるのである。 その時その時で祈りの言葉を換えてもよいし、自分なりの言葉を決めておいて、それをいつも唱えてもよい。自分なりの言葉がだんだんと決まってくることもある。祈るときにはいつもその言葉が出てくるという人もいるだろう。 自分のことをふりかえってみると、食前や食後の祈り、あるいは聖堂で聖体訪問をしたときに、自然と出てくる定型句は、「主よ、み心のままになりますように」が多いように思う。それは無意識的にいつも出てくる祈りの言葉である。 そのような射祷は、実に単純で時間もかからない簡単な祈りである。この短い祈りに自分の思いを込めるならば、たった１回であっても、神の心に届くのではないかと思う。むしろ長い祈りをするよりも、このたった１回に心を込める方がより祈りらしいかもしれない（マタイ6,7-8）。 例えば、「わが主、わが神よ」という射祷は、復活した主イエスを前にして、疑っていたトマスが思わず口にした信仰告白である（ヨハネ20,28）。 このときのトマスの告白がまさに射祷の祈りの本質を示している。たった一言の中に、トマスのすべての思いが詰まった祈りになっているからだ。回心の心も入っているし、まいりましたという降参の気持ちも入っている。信頼の心も入っているし、これから従っていきますという決意も入っているだろう。イエスを神として、主として信じるという信仰の決断にもなっている。 さまざまな気持ちと思いが込められて、トマスは「わが主、わが神よ」というフレーズを口にしたのだ。そのような射祷をたった１回でも唱えられるとすばらしい。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>前回は少し難しかったかもしれないので、今回はシンプルな祈り方を紹介したい。</p>
<p>祈りには口祷（口で唱える祈り）と念祷（心の中で思いめぐらす祈り、前回の黙想など）があるが、</p>
<p>口祷の中でも最も単純な祈りを説明したい。</p>
<p>簡単なので、すぐに実践してみたらどうだろうか。</p>
<p><strong>１．射祷（しゃとう）</strong></p>
<p>カトリック教会で、「射祷」と呼ばれる祈り方である。短い祈りを口で唱える、ただそれだけである。</p>
<p>例えば、「主よ、来てください」、「マラナタ」、「わが神、わが主よ」、「み旨のままに」、「主よ、あなたを愛します」、「聖霊、来てください」「イエス、助けてください」、「マリア、祈ってください」などである。</p>
<p>いつ、どこででも、心に思いが浮かんできたとき、心の中ででも、口に出してでも唱えることができる。自分の思いを短い言葉に込めて、まさに矢を射るように、神の心に直接訴えかけるのである。</p>
<p>その時その時で祈りの言葉を換えてもよいし、自分なりの言葉を決めておいて、それをいつも唱えてもよい。自分なりの言葉がだんだんと決まってくることもある。祈るときにはいつもその言葉が出てくるという人もいるだろう。</p>
<p>自分のことをふりかえってみると、食前や食後の祈り、あるいは聖堂で聖体訪問をしたときに、自然と出てくる定型句は、「主よ、み心のままになりますように」が多いように思う。それは無意識的にいつも出てくる祈りの言葉である。</p>
<p>そのような射祷は、実に単純で時間もかからない簡単な祈りである。この短い祈りに自分の思いを込めるならば、たった１回であっても、神の心に届くのではないかと思う。むしろ長い祈りをするよりも、このたった１回に心を込める方がより祈りらしいかもしれない（マタイ6,7-8）。</p>
<p>例えば、「わが主、わが神よ」という射祷は、復活した主イエスを前にして、疑っていたトマスが思わず口にした信仰告白である（ヨハネ20,28）。</p>
<p>このときのトマスの告白がまさに射祷の祈りの本質を示している。たった一言の中に、トマスのすべての思いが詰まった祈りになっているからだ。回心の心も入っているし、まいりましたという降参の気持ちも入っている。信頼の心も入っているし、これから従っていきますという決意も入っているだろう。イエスを神として、主として信じるという信仰の決断にもなっている。</p>
<p>さまざまな気持ちと思いが込められて、トマスは「わが主、わが神よ」というフレーズを口にしたのだ。そのような射祷をたった１回でも唱えられるとすばらしい。</p>
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		<item>
		<title>第５回　本格的な黙想の仕方　―3回想</title>
		<link>http://www.ignchurch.info/inori/archives/187</link>
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		<pubDate>Sat, 18 Sep 2010 05:40:53 +0000</pubDate>
		<dc:creator>inori</dc:creator>
				<category><![CDATA[祈りの場]]></category>
		<category><![CDATA[祈りの時間]]></category>

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		<description><![CDATA[３．回想 ・祈りを終えた後、場所や姿勢を変えて、今の黙想をふりかえる。 どのような心の動きや気づきがあっただろうか？ 黙想の時間は長かったか、短かったか？ 退屈だったか、実りを感じただろうか？ ・神の働きかけ、呼びかけがあっただろうか？　それに私はどう応えただろうか？ ・特に印象深かった点や心に残っていることを、簡単に書きとめておくとよい。 ・黙想の時、何も感じないし、何も頭に浮かばないことも多い。 ところが、それを回想すると、何か引っかかっていることに気づくこともあるので、うまくいかない黙想でもいちおうふりかえっておくことが大切である。 ＊＊＊＊＊ 以上が黙想の正式な方法である。何か形式的で堅苦しいと感じられるかもしれない。 一種の訓練として回数を重ねていくうちに、だんだんと慣れてくるものである。 霊操を英語では、&#8221;Spiritual Exercises&#8221;という。霊的なエクササイズをするという意味である。 体のエクササイズを思い出してもらいたい。本格的に体を動かす前に準備体操などをする。それと同じように、本格的に黙想する場合も準備の時間が必要である。 また体を本格的に動かした後は、整理体操をして体をクールダウンさせる。それと同様に、黙想が終わった後も回想のひとときをとるのである。 体も心も同じだが、ラジオやテレビのようにスイッチを入れたらすぐに作動し、スイッチを切ったからすぐに止まるものではない。体も心もだんだんと調子があがり、だんだんと静まってくるものだ。 そのため、上記のような厳密な形でなくとも、黙想を本格的にする場合は、自分なりの手順を決めておくとよいだろう。 心をよりよく働かせるために、エクササイズを繰り返して、自分の霊魂を整えていこう。 体のエクササイズも大切だが、魂のエクササイズはもっと大切なことではないだろうか。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>３．回想</strong></p>
<p>・祈りを終えた後、場所や姿勢を変えて、今の黙想をふりかえる。<br />
どのような心の動きや気づきがあっただろうか？<br />
黙想の時間は長かったか、短かったか？<br />
退屈だったか、実りを感じただろうか？</p>
<p>・神の働きかけ、呼びかけがあっただろうか？　それに私はどう応えただろうか？</p>
<p>・特に印象深かった点や心に残っていることを、簡単に書きとめておくとよい。</p>
<p>・黙想の時、何も感じないし、何も頭に浮かばないことも多い。<br />
ところが、それを回想すると、何か引っかかっていることに気づくこともあるので、うまくいかない黙想でもいちおうふりかえっておくことが大切である。</p>
<p>＊＊＊＊＊</p>
<p>以上が黙想の正式な方法である。何か形式的で堅苦しいと感じられるかもしれない。</p>
<p>一種の訓練として回数を重ねていくうちに、だんだんと慣れてくるものである。</p>
<p>霊操を英語では、&#8221;Spiritual Exercises&#8221;という。霊的なエクササイズをするという意味である。<br />
体のエクササイズを思い出してもらいたい。本格的に体を動かす前に準備体操などをする。それと同じように、本格的に黙想する場合も準備の時間が必要である。<br />
また体を本格的に動かした後は、整理体操をして体をクールダウンさせる。それと同様に、黙想が終わった後も回想のひとときをとるのである。<br />
体も心も同じだが、ラジオやテレビのようにスイッチを入れたらすぐに作動し、スイッチを切ったからすぐに止まるものではない。体も心もだんだんと調子があがり、だんだんと静まってくるものだ。<br />
そのため、上記のような厳密な形でなくとも、黙想を本格的にする場合は、自分なりの手順を決めておくとよいだろう。</p>
<p>心をよりよく働かせるために、エクササイズを繰り返して、自分の霊魂を整えていこう。</p>
<p>体のエクササイズも大切だが、魂のエクササイズはもっと大切なことではないだろうか。</p>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>第５回　本格的な黙想の仕方　―2 黙想</title>
		<link>http://www.ignchurch.info/inori/archives/168</link>
		<comments>http://www.ignchurch.info/inori/archives/168#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 18 Sep 2010 05:37:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator>inori</dc:creator>
				<category><![CDATA[祈りの場]]></category>
		<category><![CDATA[祈りの時間]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.ignchurch.info/inori/?p=168</guid>
		<description><![CDATA[２－１．導入 ・本格的に祈る場に身をおこう。自分の家のいつも祈る場へ。あるいは近くの聖堂でもよいだろう。 その場は、30分から１時間、邪魔されずに集中して祈ることができることが最低条件になる。人によって、祈りやすさが違うので、自分にとって心が落ち 着き、祈りやすい場所を選ぶように。 ・祈りやすい姿勢をとる。少し腰骨を立てて、肩の力を抜く。 これも人によって違うが、リラックスしながら、集中できる姿勢をとる。やはり30分から１時間持続できる姿勢をとる。 ・ゆっくり呼吸して、心を落ち着かせ、静けさに入っていくようにする。 そして、心を沈めながら、神がここに共にいてくださること（神の現存）を意識する。 忙しい日常生活から急に気持ちを切り替えることはできないので、少しずつ沈黙に入っていく感じだ。 ２－２．黙想の中味 ・選んだみことばを思い出してみよう。それを手がかりにして、自分の信仰生活をふりかえってみよう。ただ単にできたか、できなかったかという反省ではなく、神の目で見つめ直してみるのである。 ・準備のときに選んだみことばを心の中で繰り返したり反芻したりしながら味わいを深めていく。そこから生じてくる心の動き（気持ち）を味わってみよう。 ・そのことばが自分の生活にどのように関係しているだろうか。過去の自分の生活、あるいは現在の生活を思い起こしながら、どのようなつながりがあるかをふりかえってみよう。どういうことが思い出され、どういうことと関連があるだろうか。 ・そこからどのような心の動きを感じるだろうか。 喜びや平安など、肯定的な気持ちが少しでも湧いてくるかもしれない。そのかすかな動きにとどまってそれを味わってみよう。 逆に、否定的な思いが湧いてくるかもしれない。逃げずにそれを味わってみよう。そこから大切な気づきが生まれてくるかもしれないから。 ・そのようなるふりかえりや味わいから何か気づかされることはないだろうか。 以前に大切だと思っていることを確認することは？ 今までバラバラだったものに関連づけが見えてくるかもしれない（ある聖書のことばとある出来事の関連とか、イエスの言動とある人の態度とのつながりとか）。 あるいは全く新しいことに気づくかもしれない。 ・何らかの形で、神の働きかけを感じるだろうか。 その時は神だとは分からなかったけれど、今ふりかえってみて、神さまが導いておられたとか。 あるいは、神からのメッセージが聞こえるでしょうか。これはそういうことだったんだとか。 ・伝統的な表現でいうと、黙想では、記憶（生活とのつながり）を働かせ、知性（気づき）を使い、そして意志（心の動き）を働かせるのである。 ２－３．対話 ・祈りが終わりに近づいたころ、神さまと対話をしてみよう。 気づかされたこと、感じたこと、とまどいや疑問、願いや思いを素直に神さまに話してみよう。 私の話に対して、神さまは何と答えられるだろうか。 神さまやイエスさまがあたかも自分の目の前におられるつもりで、神の答えを聞いてみよう。対話をしてみよう。 ・それまでの黙想がうまくいっていても、うまくいっていなくても、こちらからはそれを正直に話せばよいのである。 メッセージを聴きとるのは難しいかもしれないが、まずは　聴こうとすることが大切なことだ。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>２－１．導入</strong><br />
・本格的に祈る場に身をおこう。自分の家のいつも祈る場へ。あるいは近くの聖堂でもよいだろう。</p>
<p>その場は、30分から１時間、邪魔されずに集中して祈ることができることが最低条件になる。人によって、祈りやすさが違うので、自分にとって心が落ち<br />
着き、祈りやすい場所を選ぶように。</p>
<p>・祈りやすい姿勢をとる。少し腰骨を立てて、肩の力を抜く。</p>
<p>これも人によって違うが、リラックスしながら、集中できる姿勢をとる。やはり30分から１時間持続できる姿勢をとる。</p>
<p>・ゆっくり呼吸して、心を落ち着かせ、静けさに入っていくようにする。</p>
<p>そして、心を沈めながら、神がここに共にいてくださること（神の現存）を意識する。</p>
<p>忙しい日常生活から急に気持ちを切り替えることはできないので、少しずつ沈黙に入っていく感じだ。</p>
<p><strong>２－２．黙想の中味</strong></p>
<p>・選んだみことばを思い出してみよう。それを手がかりにして、自分の信仰生活をふりかえってみよう。ただ単にできたか、できなかったかという反省ではなく、神の目で見つめ直してみるのである。</p>
<p>・準備のときに選んだみことばを心の中で繰り返したり反芻したりしながら味わいを深めていく。そこから生じてくる心の動き（気持ち）を味わってみよう。</p>
<p>・そのことばが自分の生活にどのように関係しているだろうか。過去の自分の生活、あるいは現在の生活を思い起こしながら、どのようなつながりがあるかをふりかえってみよう。どういうことが思い出され、どういうことと関連があるだろうか。</p>
<p>・そこからどのような心の動きを感じるだろうか。<br />
喜びや平安など、肯定的な気持ちが少しでも湧いてくるかもしれない。そのかすかな動きにとどまってそれを味わってみよう。<br />
逆に、否定的な思いが湧いてくるかもしれない。逃げずにそれを味わってみよう。そこから大切な気づきが生まれてくるかもしれないから。</p>
<p>・そのようなるふりかえりや味わいから何か気づかされることはないだろうか。<br />
以前に大切だと思っていることを確認することは？<br />
今までバラバラだったものに関連づけが見えてくるかもしれない（ある聖書のことばとある出来事の関連とか、イエスの言動とある人の態度とのつながりとか）。<br />
あるいは全く新しいことに気づくかもしれない。</p>
<p>・何らかの形で、神の働きかけを感じるだろうか。<br />
その時は神だとは分からなかったけれど、今ふりかえってみて、神さまが導いておられたとか。<br />
あるいは、神からのメッセージが聞こえるでしょうか。これはそういうことだったんだとか。</p>
<p>・伝統的な表現でいうと、黙想では、記憶（生活とのつながり）を働かせ、知性（気づき）を使い、そして意志（心の動き）を働かせるのである。</p>
<p><strong>２－３．対話</strong></p>
<p>・祈りが終わりに近づいたころ、神さまと対話をしてみよう。<br />
気づかされたこと、感じたこと、とまどいや疑問、願いや思いを素直に神さまに話してみよう。<br />
私の話に対して、神さまは何と答えられるだろうか。<br />
神さまやイエスさまがあたかも自分の目の前におられるつもりで、神の答えを聞いてみよう。対話をしてみよう。</p>
<p>・それまでの黙想がうまくいっていても、うまくいっていなくても、こちらからはそれを正直に話せばよいのである。<br />
メッセージを聴きとるのは難しいかもしれないが、まずは　聴こうとすることが大切なことだ。</p>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>第５回　本格的な黙想の仕方　―１ 準備</title>
		<link>http://www.ignchurch.info/inori/archives/163</link>
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		<pubDate>Sat, 18 Sep 2010 05:36:35 +0000</pubDate>
		<dc:creator>inori</dc:creator>
				<category><![CDATA[祈りの場]]></category>
		<category><![CDATA[祈りの時間]]></category>

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		<description><![CDATA[第３回で黙想の基本的な精神を述べた。今回は本格的な黙想のやり方を具体的に解説してみよう。 聖イグナチオ・ロヨラ（イエズス会の創立者、私もこのイエズス会に属している）の編み出した『霊操』という祈り方に従って説明してみたい。 厳密に30分なり１時間なりのまとまった時間を使った黙想をする場合、厳密な形では、３つの時間をとる。 まずは準備の時間をとり、次に黙想する時間をとり、最後に回想する時間をとるのである。 １．準備－前もって ・まずみことば（聖書）を読んでみる。ゆっくりと２，３回かけて読んでみる。どんなことばや情景が心に響くだろか。心が動くところ、その意味を深めてみたいと思う一言、一節を選ぶ。それを黙想の要点にして、深めていくことに　する。 ・そのみことばと今の自分の生活を重ねてみよう。そのみことばから、何か思い出されることがあるだろうか。 ・この黙想でどんな恵みをいただきたいか。それを祈りの意向として意識し、恵みを願う。 ・朝一番に祈る場合、この準備は前晩にしておくとよい。朝目覚めてすぐに黙想に入ることができるからだ。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>第３回で黙想の基本的な精神を述べた。今回は本格的な黙想のやり方を具体的に解説してみよう。</p>
<p>聖イグナチオ・ロヨラ（イエズス会の創立者、私もこのイエズス会に属している）の編み出した『霊操』という祈り方に従って説明してみたい。</p>
<p>厳密に30分なり１時間なりのまとまった時間を使った黙想をする場合、厳密な形では、３つの時間をとる。<br />
まずは準備の時間をとり、次に黙想する時間をとり、最後に回想する時間をとるのである。</p>
<p><strong>１．準備－前もって</strong></p>
<p>・まずみことば（聖書）を読んでみる。ゆっくりと２，３回かけて読んでみる。どんなことばや情景が心に響くだろか。心が動くところ、その意味を深めてみたいと思う一言、一節を選ぶ。それを黙想の要点にして、深めていくことに　する。</p>
<p>・そのみことばと今の自分の生活を重ねてみよう。そのみことばから、何か思い出されることがあるだろうか。<br />
・この黙想でどんな恵みをいただきたいか。それを祈りの意向として意識し、恵みを願う。</p>
<p>・朝一番に祈る場合、この準備は前晩にしておくとよい。朝目覚めてすぐに黙想に入ることができるからだ。</p>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>第4回　質問に答えて　―3　祈りの中で神の導きを知るには</title>
		<link>http://www.ignchurch.info/inori/archives/148</link>
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		<pubDate>Thu, 19 Aug 2010 06:59:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>inori</dc:creator>
				<category><![CDATA[その他]]></category>

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		<description><![CDATA[神さまが私たちを導いておられるのは確かだが、それはどのようにすれば分かるだろうか。 普通は、黙想の中で、過去の体験をふりかえってみることである。 その時は分からなくとも、後からふりかえると、ああこういう風に神は導いておられるのだと分かることは多い。 現在と未来については、霊的識別をしながら慎重に神のみ旨を探していくのが本筋である。それはいつか取りあげたいテーマの一つである。 ただ一つだけ語るならば、未来については分からないのが普通である。すべて神の導きが分かってしまうならば、たぶん人間には自由がなくなってしまうだろう。 漫画のドラえもんでそういう機械が出てきたことがある。迷ったときに、必ずどっちを選んだらよいか教えてくれる未来を指示する機械である。テストの答えも、買い物で何を買うかも、すべてどっちを選んだらよいか教えてくれるのである。そういうモチーフの物語は他にも多々ある（例えば、よく当たる占いも同じ）。 結末はすべて同じような悲惨なものになってしまう。機械の指示に忠実ならば、どんどん成功していくが、その指示に逆らうととたんに失敗してしまう。そのため、さらに機械に指示を仰ぎ、いつしか機械なしには生活が成り立たなくなり、もう自分で何も決められなくなってしまうのだ。 結局、その機械に縛られて、人間は奴隷のように不自由になってしまうのである。 だからこそ未来については次の原則が大事である。 神さまは私たち人間がより自由に、より愛にあふれた者になることを望んでおられる。その道は自分で探し、決め、歩まねばならないのである。 神さまは人間の自由をとことん尊重してくださるのだから。神さまを信頼しつつ、未来に向かって、自由と愛の心で前進していきたいものである。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>神さまが私たちを導いておられるのは確かだが、それはどのようにすれば分かるだろうか。</p>
<p>普通は、黙想の中で、過去の体験をふりかえってみることである。</p>
<p>その時は分からなくとも、後からふりかえると、ああこういう風に神は導いておられるのだと分かることは多い。</p>
<p>現在と未来については、霊的識別をしながら慎重に神のみ旨を探していくのが本筋である。それはいつか取りあげたいテーマの一つである。</p>
<p>ただ一つだけ語るならば、未来については分からないのが普通である。すべて神の導きが分かってしまうならば、たぶん人間には自由がなくなってしまうだろう。</p>
<p>漫画のドラえもんでそういう機械が出てきたことがある。迷ったときに、必ずどっちを選んだらよいか教えてくれる未来を指示する機械である。テストの答えも、買い物で何を買うかも、すべてどっちを選んだらよいか教えてくれるのである。そういうモチーフの物語は他にも多々ある（例えば、よく当たる占いも同じ）。</p>
<p>結末はすべて同じような悲惨なものになってしまう。機械の指示に忠実ならば、どんどん成功していくが、その指示に逆らうととたんに失敗してしまう。そのため、さらに機械に指示を仰ぎ、いつしか機械なしには生活が成り立たなくなり、もう自分で何も決められなくなってしまうのだ。</p>
<p>結局、その機械に縛られて、人間は奴隷のように不自由になってしまうのである。</p>
<p>だからこそ未来については次の原則が大事である。</p>
<p>神さまは私たち人間がより自由に、より愛にあふれた者になることを望んでおられる。その道は自分で探し、決め、歩まねばならないのである。</p>
<p>神さまは人間の自由をとことん尊重してくださるのだから。神さまを信頼しつつ、未来に向かって、自由と愛の心で前進していきたいものである。</p>
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		<item>
		<title>第4回　質問に答えて　―2　心からの祈り</title>
		<link>http://www.ignchurch.info/inori/archives/146</link>
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		<pubDate>Thu, 19 Aug 2010 06:59:30 +0000</pubDate>
		<dc:creator>inori</dc:creator>
				<category><![CDATA[その他]]></category>

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		<description><![CDATA[私たち人間はどういう能力を使って祈るのだろうか。 もちろん口祷の祈りの場合、口を使うことになる。沈黙の祈りの場合、口を使うこともないし、言葉を発することもない。口祷であろうと、沈黙であろうと、祈るときに必ず使う人間の能力がある。それは「心」である。 心を使わないで祈りは成立しない。知性（頭の働き）をあまり使わないで祈ることはできる。歌で祈る場合、あんまり頭で考えることは少ないだろう。しかしながら、心を全く使わない祈りはありえない。なぜなら祈りは根本的に愛の動きから生まれるものであり、愛と心はいつも深い関係にあるからだ。全く愛さないキリスト者がいるだろうか。それと同じように、全く心を使わない祈りもありえないのである。 ただもちろん、強く愛することもあれば、少しだけ愛することもある。祈りに心を込める場合も同様である。ものすごく心を込めることもあるだろうし、少しだけ心を込めることもあるだろう。もし恋人が家に訪ねてくることを想定してみよう。その恋人と熱烈に愛し合っているならば、ものすごく心を込めて一緒に食べる食事を準備するだろう。逆に、もう倦怠期を迎えている夫婦ならば、あんまり心を込めて食事を作らなくなるだろう。どれだけ心を込めるかは、その人の愛情の度合いに左右されるのは間違いない。 理想的にはパートナーを変わらない愛で愛していきたいものだ。それと同様に神さまに対しても、変わらぬ愛で愛し続けていきたい。人間の愛は移ろいやすいものだが、神さまはいつも変わらぬ愛で、私たちを愛し続けているのだから。その愛に応えて、私たちもなるべく心を込めて祈りたいものである。 心を込めるのは、別に祈りの時だけの心がまえではない。むしろ日常生活の中でこそ実践すべきことではないだろうか。 一番思い出すのは、佐藤初女さんである。ご存じの方もおられるだろうが、弘前で「森のイスキア」と呼ばれるいやしの家を主催されているカトリック信者である。苦しんでいる多くの人が彼女の元に訪れ、彼女に悩みを打ち明け、彼女のおいしい料理を食べているうちに、人はだんだんといやされていくのである。 何回かその初女さんと共に過ごすことがあった。彼女を見ていると、「心を込める」というはどういうことかよく分かる。彼女はおにぎりを一個握るときにも心を込めて握るので、とてもおいしいのだ。挨拶をするとき、人を話を聞くとき、料理を作るとき、その一つひとつに心が込められているので、彼女に接する人は皆いやされる。 彼女が嫌いな言葉は、「めんどくさい」と「手抜き」である。 めんどうくさいから手を抜いていくとき、その料理には人を生かす真の力はなくなっていくだろう。 現代社会では、多くの人はめんどうくさいことはいやになって、手を抜き、あまりに手軽なものを求めるようになってしまった。この忙しい世界で、心を込めるのは時間もかかるし、大変なことかもしれない。でも忙しいから手抜きでよいとなってしまうならば、能率や効率はよいかもしれないが、人間不在の愛のない殺伐とした世界が広がっていくのではないだろうか。 祈りも同じである。めんどうくさくなって手を抜いてしまうならば、その祈りには何の効果ももたされないだろう。心を込めて祈るとき、祈りに命が吹き込まれるのではないだろうか。 心を込めて料理を作るとき、その料理は真に人を生かす力になるだろう。心を込めて人と接するとき、人と人の間に愛情がはぐくまれ、皆が幸せになっていくだろう。 隣人愛の基本は、心を込めていくことではなかろうか。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>私たち人間はどういう能力を使って祈るのだろうか。</p>
<p>もちろん口祷の祈りの場合、口を使うことになる。沈黙の祈りの場合、口を使うこともないし、言葉を発することもない。口祷であろうと、沈黙であろうと、祈るときに必ず使う人間の能力がある。それは「心」である。</p>
<p>心を使わないで祈りは成立しない。知性（頭の働き）をあまり使わないで祈ることはできる。歌で祈る場合、あんまり頭で考えることは少ないだろう。しかしながら、心を全く使わない祈りはありえない。なぜなら祈りは根本的に愛の動きから生まれるものであり、愛と心はいつも深い関係にあるからだ。全く愛さないキリスト者がいるだろうか。それと同じように、全く心を使わない祈りもありえないのである。</p>
<p>ただもちろん、強く愛することもあれば、少しだけ愛することもある。祈りに心を込める場合も同様である。ものすごく心を込めることもあるだろうし、少しだけ心を込めることもあるだろう。もし恋人が家に訪ねてくることを想定してみよう。その恋人と熱烈に愛し合っているならば、ものすごく心を込めて一緒に食べる食事を準備するだろう。逆に、もう倦怠期を迎えている夫婦ならば、あんまり心を込めて食事を作らなくなるだろう。どれだけ心を込めるかは、その人の愛情の度合いに左右されるのは間違いない。</p>
<p>理想的にはパートナーを変わらない愛で愛していきたいものだ。それと同様に神さまに対しても、変わらぬ愛で愛し続けていきたい。人間の愛は移ろいやすいものだが、神さまはいつも変わらぬ愛で、私たちを愛し続けているのだから。その愛に応えて、私たちもなるべく心を込めて祈りたいものである。</p>
<p>心を込めるのは、別に祈りの時だけの心がまえではない。むしろ日常生活の中でこそ実践すべきことではないだろうか。</p>
<p>一番思い出すのは、佐藤初女さんである。ご存じの方もおられるだろうが、弘前で「森のイスキア」と呼ばれるいやしの家を主催されているカトリック信者である。苦しんでいる多くの人が彼女の元に訪れ、彼女に悩みを打ち明け、彼女のおいしい料理を食べているうちに、人はだんだんといやされていくのである。<br />
何回かその初女さんと共に過ごすことがあった。彼女を見ていると、「心を込める」というはどういうことかよく分かる。彼女はおにぎりを一個握るときにも心を込めて握るので、とてもおいしいのだ。挨拶をするとき、人を話を聞くとき、料理を作るとき、その一つひとつに心が込められているので、彼女に接する人は皆いやされる。</p>
<p>彼女が嫌いな言葉は、「めんどくさい」と「手抜き」である。</p>
<p>めんどうくさいから手を抜いていくとき、その料理には人を生かす真の力はなくなっていくだろう。</p>
<p>現代社会では、多くの人はめんどうくさいことはいやになって、手を抜き、あまりに手軽なものを求めるようになってしまった。この忙しい世界で、心を込めるのは時間もかかるし、大変なことかもしれない。でも忙しいから手抜きでよいとなってしまうならば、能率や効率はよいかもしれないが、人間不在の愛のない殺伐とした世界が広がっていくのではないだろうか。</p>
<p>祈りも同じである。めんどうくさくなって手を抜いてしまうならば、その祈りには何の効果ももたされないだろう。心を込めて祈るとき、祈りに命が吹き込まれるのではないだろうか。</p>
<p>心を込めて料理を作るとき、その料理は真に人を生かす力になるだろう。心を込めて人と接するとき、人と人の間に愛情がはぐくまれ、皆が幸せになっていくだろう。</p>
<p>隣人愛の基本は、心を込めていくことではなかろうか。</p>
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		<item>
		<title>第4回　質問に答えて　―1　とりなしの祈りについて</title>
		<link>http://www.ignchurch.info/inori/archives/144</link>
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		<pubDate>Thu, 19 Aug 2010 06:59:04 +0000</pubDate>
		<dc:creator>inori</dc:creator>
				<category><![CDATA[その他]]></category>

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		<description><![CDATA[今回は今まであった質問のいくつかに答えておきます。 ***** 私たちは自分で神さまに直接祈ることができる。 ただ私たちの霊的な力が弱いのか信仰が弱いのか、なかなか神さまにアクセスしにくいということはある。そこで、とりなしの祈りが強力な援軍になってくれる。 一番のとりなし手はいうまでもなく、イエス・キリストである。彼がメシアとして、私たちの救いをとりなしておられる。 「この方（イエス）は常に生きていて、人びとのためにとりなしておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」（ヘブライ7,25）。 私たちがイエスに祈るとき、イエスがおん父へととりなしてくださるので、私たちは救われるのだ。これがキリスト教の信仰の基本であり、祈りの基本である。 それだけでなく、聖霊もとりなしてくださる。「私たちはどう祈るべきか知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださるからです」（ローマ8,26）。 私たちが聖霊に心を開いて祈るとき、その聖霊がとりなしの祈りをしてくださるのである。 カトリックや正教会ではさらに、聖母マリアのとりなしの祈りにも信頼している。 カナの婚礼でぶどう酒が不足したとき、聖母がイエスに「ぶどう酒がなくなりました」ととりなしをされる。 イエスは否定的な反応をしながらも、結局、水をぶどう酒に換える奇跡をなさった（ヨハネ2,1-11）。これはマリアさまのとりなしの祈りのおかげである。だから、ロザリオの祈りのように、聖母マリアを通してとりなしの祈りをするとき、神はその願いをかなえてくれるのである。 また諸聖人や福者にもとりなしの祈りをすることがある。彼らの功徳によって、神が聞き入れてくださるからだ。例えば、捜し物をするときは、聖アントニオ（あるいは聖コルベ）に頼むとか、聖人の場合は得意分野があるので、それに合わせてとりなしの祈りをするとよい。 最近では、マザー・テレサや聖ピオのとりなしの祈りがよく効くという評判である（あんまりこれに凝ると、本質からずれるおそれはあるが）。 このようにとりなしの祈りをすることは、キリスト教ではごく普通のことである。 マリアさまや聖人のような強力な祈りはできないだろうが、私たちがとりなしの祈りをすることもある。家族や友人で苦しんでいる場合、その人のために必死でとりなしの祈りをすることがあるだろう。「どうか病気がいやされますように」、「今の苦しみから解放されますように」ととりなしの祈りをするのはごく自然なことである。 ミサの共同祈願もとりなしの祈りだと言えるだろう。自分のためだけではなく、まわりの苦しんでいる人のためにとりなしの祈りをするのは、すぐれて愛の行為である。日々の祈りの中で、自分のために祈るだけでなく、まわりの人のためにも祈る習慣をつけるとよいと思う。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>今回は今まであった質問のいくつかに答えておきます。</p>
<p>*****</p>
<p>私たちは自分で神さまに直接祈ることができる。</p>
<p>ただ私たちの霊的な力が弱いのか信仰が弱いのか、なかなか神さまにアクセスしにくいということはある。そこで、とりなしの祈りが強力な援軍になってくれる。</p>
<p>一番のとりなし手はいうまでもなく、イエス・キリストである。彼がメシアとして、私たちの救いをとりなしておられる。</p>
<p>「この方（イエス）は常に生きていて、人びとのためにとりなしておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」（ヘブライ7,25）。</p>
<p>私たちがイエスに祈るとき、イエスがおん父へととりなしてくださるので、私たちは救われるのだ。これがキリスト教の信仰の基本であり、祈りの基本である。</p>
<p>それだけでなく、聖霊もとりなしてくださる。「私たちはどう祈るべきか知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださるからです」（ローマ8,26）。</p>
<p>私たちが聖霊に心を開いて祈るとき、その聖霊がとりなしの祈りをしてくださるのである。<br />
カトリックや正教会ではさらに、聖母マリアのとりなしの祈りにも信頼している。</p>
<p>カナの婚礼でぶどう酒が不足したとき、聖母がイエスに「ぶどう酒がなくなりました」ととりなしをされる。</p>
<p>イエスは否定的な反応をしながらも、結局、水をぶどう酒に換える奇跡をなさった（ヨハネ2,1-11）。これはマリアさまのとりなしの祈りのおかげである。だから、ロザリオの祈りのように、聖母マリアを通してとりなしの祈りをするとき、神はその願いをかなえてくれるのである。</p>
<p>また諸聖人や福者にもとりなしの祈りをすることがある。彼らの功徳によって、神が聞き入れてくださるからだ。例えば、捜し物をするときは、聖アントニオ（あるいは聖コルベ）に頼むとか、聖人の場合は得意分野があるので、それに合わせてとりなしの祈りをするとよい。</p>
<p>最近では、マザー・テレサや聖ピオのとりなしの祈りがよく効くという評判である（あんまりこれに凝ると、本質からずれるおそれはあるが）。<br />
このようにとりなしの祈りをすることは、キリスト教ではごく普通のことである。</p>
<p>マリアさまや聖人のような強力な祈りはできないだろうが、私たちがとりなしの祈りをすることもある。家族や友人で苦しんでいる場合、その人のために必死でとりなしの祈りをすることがあるだろう。「どうか病気がいやされますように」、「今の苦しみから解放されますように」ととりなしの祈りをするのはごく自然なことである。</p>
<p>ミサの共同祈願もとりなしの祈りだと言えるだろう。自分のためだけではなく、まわりの苦しんでいる人のためにとりなしの祈りをするのは、すぐれて愛の行為である。日々の祈りの中で、自分のために祈るだけでなく、まわりの人のためにも祈る習慣をつけるとよいと思う。</p>
]]></content:encoded>
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