第2回 黙想の家に来ること-1 黙想の家とは

黙想の家の黙想会に来たら、何をすればよいのだろうか。

小教区で行われる四旬節の黙想会に参加された人は多いだろうが、それとはまた違う面が多い。今回は、黙想の家での過ごし方について説明してみたい。

―リトリート(ひきこもり)のススメ

黙想の家を英語で言うと、”Retreat House”と言う。

リトリートとは「引きこもる」という意味である。つまり、黙想の家とは、日常生活から離れ、引きこもるための場所という意味になる。最近は、引きこもりが一種の病理現象としてちまたで流行っているが、黙想会(英語で、”Retreat”)とは、わざと自分を引きこもりの状態に置くことなのである。それは、世俗の喧噪から、神の懐に引きこもることなのである。

これは元来、修道生活の目ざすものであった。ローマ帝国のコンスタンティヌス皇帝がキリスト教を公認したあと、キリスト教は一般市民が誰でも信じることができる宗教になった。そうすると、ただ普通に日常生活を生きるだけでは飽き足らないキリスト者が出てきた。エジプトのアントニウスが最初だと言われているが、彼らは砂漠に行き、世俗から離れた生活を送るようになる。それがきっかけとなって修道生活が始まった。「世から逃れよ(Fuga Mundi)」というモットーから、修道院を都市から離れた砂漠・山・森の中に作った。その修道院で、修道者は「祈り、働け」(Ora et Labora)という標語のもと、ただ祈りと労働の日々を過ごしたのである。

現代の黙想の家というのは、そのような伝統的な修道生活をモデルにして、そのような望みをもつ人のために開かれているのだ。集中的な黙想をすることを、「砂漠に入る」という言い方をする。ヨーロッパならば、「森に入る」、日本ならば、「山にこもる」という表現になるが、意味するところは同じである。

鎌倉の黙想の家は、「森に入る」や「山にこもる」という表現がぴったりな場所にある。緑に囲まれ、鳥の声が聞こえ、世間の騒がしさから離れ、沈黙に浸ることができる理想的な黙想の家である。

現代生活はあまりに忙しく、刺激が多く、神経が緊張しすぎたり、疲れすぎたりする。このような騒々しい中にいると、神の声を聴くのはとても難しい。日常生活の忙しさの中で、身も心もふりまわされてしまうからだ。日常の中で祈るといっても、生活の落ち着きのなさに身をおいたままなので、なかなか集中できないし、心の平安も見いだしにくい。

だから何らかの形で日常生活の忙しさから引きこもらないと神さまと触れるのが難しいのである。

預言者エレミヤが神の声をどのように聴いたのか。激しい風、地震、火の中に神を見いだすことはできず、ただ「静かにささやく声」を聴いたのだった(列王記上19・11-12)。

現代の騒がしさは、風や地震や火のようなものだろう。そのような騒がしさの中に主は現れない。騒がしさの中では聞こえないような、「静かにささやく声」を聴かねばならない。そのために、私たちには引きこもりが必要なのだ。

最近の電車の中では、イヤホンで音楽を聴いている人をよく見かける。

もちろんいろいろな理由があるのだろうけれど、ある人びとは自分の感性をわざと閉じるためだという。

通勤や通学の最中でもあまり情報もストレスも多い。感性を開いている(つまり静かにささやく声を聞こうとすると態度)ととてもじゃないけれど、心が疲れすぎてしまう。そのために、通勤途中はわざとイヤホンをして音楽を聴いて、場を感じる力を鈍くしていているという。

私たちの日常生活は意識しない形でも、あまりにたくさんの情報と刺激を受けているので、心が麻痺してしまっているのだろう。だからこそ、黙想の家の静かな場所で自分の感性を取り戻すことが必要なのだ。

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