私たち人間はどういう能力を使って祈るのだろうか。
もちろん口祷の祈りの場合、口を使うことになる。沈黙の祈りの場合、口を使うこともないし、言葉を発することもない。口祷であろうと、沈黙であろうと、祈るときに必ず使う人間の能力がある。それは「心」である。
心を使わないで祈りは成立しない。知性(頭の働き)をあまり使わないで祈ることはできる。歌で祈る場合、あんまり頭で考えることは少ないだろう。しかしながら、心を全く使わない祈りはありえない。なぜなら祈りは根本的に愛の動きから生まれるものであり、愛と心はいつも深い関係にあるからだ。全く愛さないキリスト者がいるだろうか。それと同じように、全く心を使わない祈りもありえないのである。
ただもちろん、強く愛することもあれば、少しだけ愛することもある。祈りに心を込める場合も同様である。ものすごく心を込めることもあるだろうし、少しだけ心を込めることもあるだろう。もし恋人が家に訪ねてくることを想定してみよう。その恋人と熱烈に愛し合っているならば、ものすごく心を込めて一緒に食べる食事を準備するだろう。逆に、もう倦怠期を迎えている夫婦ならば、あんまり心を込めて食事を作らなくなるだろう。どれだけ心を込めるかは、その人の愛情の度合いに左右されるのは間違いない。
理想的にはパートナーを変わらない愛で愛していきたいものだ。それと同様に神さまに対しても、変わらぬ愛で愛し続けていきたい。人間の愛は移ろいやすいものだが、神さまはいつも変わらぬ愛で、私たちを愛し続けているのだから。その愛に応えて、私たちもなるべく心を込めて祈りたいものである。
心を込めるのは、別に祈りの時だけの心がまえではない。むしろ日常生活の中でこそ実践すべきことではないだろうか。
一番思い出すのは、佐藤初女さんである。ご存じの方もおられるだろうが、弘前で「森のイスキア」と呼ばれるいやしの家を主催されているカトリック信者である。苦しんでいる多くの人が彼女の元に訪れ、彼女に悩みを打ち明け、彼女のおいしい料理を食べているうちに、人はだんだんといやされていくのである。
何回かその初女さんと共に過ごすことがあった。彼女を見ていると、「心を込める」というはどういうことかよく分かる。彼女はおにぎりを一個握るときにも心を込めて握るので、とてもおいしいのだ。挨拶をするとき、人を話を聞くとき、料理を作るとき、その一つひとつに心が込められているので、彼女に接する人は皆いやされる。
彼女が嫌いな言葉は、「めんどくさい」と「手抜き」である。
めんどうくさいから手を抜いていくとき、その料理には人を生かす真の力はなくなっていくだろう。
現代社会では、多くの人はめんどうくさいことはいやになって、手を抜き、あまりに手軽なものを求めるようになってしまった。この忙しい世界で、心を込めるのは時間もかかるし、大変なことかもしれない。でも忙しいから手抜きでよいとなってしまうならば、能率や効率はよいかもしれないが、人間不在の愛のない殺伐とした世界が広がっていくのではないだろうか。
祈りも同じである。めんどうくさくなって手を抜いてしまうならば、その祈りには何の効果ももたされないだろう。心を込めて祈るとき、祈りに命が吹き込まれるのではないだろうか。
心を込めて料理を作るとき、その料理は真に人を生かす力になるだろう。心を込めて人と接するとき、人と人の間に愛情がはぐくまれ、皆が幸せになっていくだろう。
隣人愛の基本は、心を込めていくことではなかろうか。