今回は今まであった質問のいくつかに答えておきます。
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私たちは自分で神さまに直接祈ることができる。
ただ私たちの霊的な力が弱いのか信仰が弱いのか、なかなか神さまにアクセスしにくいということはある。そこで、とりなしの祈りが強力な援軍になってくれる。
一番のとりなし手はいうまでもなく、イエス・キリストである。彼がメシアとして、私たちの救いをとりなしておられる。
「この方(イエス)は常に生きていて、人びとのためにとりなしておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(ヘブライ7,25)。
私たちがイエスに祈るとき、イエスがおん父へととりなしてくださるので、私たちは救われるのだ。これがキリスト教の信仰の基本であり、祈りの基本である。
それだけでなく、聖霊もとりなしてくださる。「私たちはどう祈るべきか知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださるからです」(ローマ8,26)。
私たちが聖霊に心を開いて祈るとき、その聖霊がとりなしの祈りをしてくださるのである。
カトリックや正教会ではさらに、聖母マリアのとりなしの祈りにも信頼している。
カナの婚礼でぶどう酒が不足したとき、聖母がイエスに「ぶどう酒がなくなりました」ととりなしをされる。
イエスは否定的な反応をしながらも、結局、水をぶどう酒に換える奇跡をなさった(ヨハネ2,1-11)。これはマリアさまのとりなしの祈りのおかげである。だから、ロザリオの祈りのように、聖母マリアを通してとりなしの祈りをするとき、神はその願いをかなえてくれるのである。
また諸聖人や福者にもとりなしの祈りをすることがある。彼らの功徳によって、神が聞き入れてくださるからだ。例えば、捜し物をするときは、聖アントニオ(あるいは聖コルベ)に頼むとか、聖人の場合は得意分野があるので、それに合わせてとりなしの祈りをするとよい。
最近では、マザー・テレサや聖ピオのとりなしの祈りがよく効くという評判である(あんまりこれに凝ると、本質からずれるおそれはあるが)。
このようにとりなしの祈りをすることは、キリスト教ではごく普通のことである。
マリアさまや聖人のような強力な祈りはできないだろうが、私たちがとりなしの祈りをすることもある。家族や友人で苦しんでいる場合、その人のために必死でとりなしの祈りをすることがあるだろう。「どうか病気がいやされますように」、「今の苦しみから解放されますように」ととりなしの祈りをするのはごく自然なことである。
ミサの共同祈願もとりなしの祈りだと言えるだろう。自分のためだけではなく、まわりの苦しんでいる人のためにとりなしの祈りをするのは、すぐれて愛の行為である。日々の祈りの中で、自分のために祈るだけでなく、まわりの人のためにも祈る習慣をつけるとよいと思う。