―神とただふたりだけで
神の愛が少しずつ実感できてきたら、やっと定義の後半に入ることができる。
つまり、「神との友情の親密な交換」である。ヨハネ福音書ではイエスははっきりと宣言されている、
「私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15,15)と。
あなたはイエスの友になっているだろうか。友のように友情を交換しているだろうか。そして、友として行動しているだろうか。
自分の親友とのかかわりを思い出してほしい。親しい友とどのようなかかわりをもっているだろうか。
いろいろとおしゃべりをして情報交換し、自分の思いを伝え、相手の思いをよく聞くことだろう。あるいはあまりおしゃべりする必要のない友情関係もあるだろう。ただ一緒にいるだけで、心が和み、落ち着くという友情もある。たった二人だけで過ごすことができる大きな喜びと安心感があるものだ。
親しい友と一緒にいるように、イエスと一緒にいることが黙想なのだ。しかもたった二人だけで。
親しい友と一緒にいるとき、時間はあっという間に過ぎてしまう。またもっと一緒にいたいという望みも生まれてくる。だから黙想のために、1時間や2時間を費やすのは当然のことなのだ。愛する人と一緒にいることは苦痛ではなく、大きななぐさめなのだから。
神と一緒にいるとき、ただ沈黙で現存を味わうだけでもよい。あるいは、ことばを交わしてもかまわない。
自分の心にある素直な思いを伝えてみたい。感謝や賛美のことば、苦しみを注ぎ出すような嘆きや嘆願になるかもしれない。自分の思いがことばにならず、単なるうめきやため息だけかもしれない。それでも伝えようとする態度が肝要だ。
そしてできるならば、神の言葉やメッセージを聞いてみよう。
はっきりとした言葉でなくとも、神の思いのようなものが伝わってくるかもしれない。だんだんと心が軽くなったり、安らぎが広がってくることもある。そのような変化を通して、神が自分の心に触れてくださることもある。神の前に自分の身をおき、心を傾けていることは、大きな友情のしるしではないだろうか。
祈りが深まってくると、神との友情の交換という事実がはっきりと分かってくる。
神と自分がパーソナルにかかわることができるのだ。
神は単なる概念でもなく、スローガンでもなく、遠いところにおられるだけでなく、今のあなたと直接につながっていて、心を通わせることができる方である。
神さまと友情をもつことができることが、黙想の実りであり、醍醐味なのだ。
参考文献:東京女子カルメル会訳『イエズスの聖テレジア自叙伝』中央出版社