腐葉土(ふようど)、奥村 一郎

久しぶりに東京の郊外、調布にある深大寺の植物園を通った。雨のあと、洗われたように澄んだ晩秋の空にはさわやかな朝の光がみなぎっていた。まだ往来の人もまばらな並木道を覆うようにして広がる落ち葉を踏みしめながら、寺を通り抜け、近くの女子カルメル会修道院に向かう。

身も引き締まるほどに寒さを覚える中、まっすぐに空に伸びて裸になった枝の梢(こずえ)を眺めながら歩んでいくと、足元にカサカサと音をたてる枯れ葉に、ふと思いが吸い寄せられた。その間にも軽やかに枝を離れて地に落ちる枯れ葉。

その落ち葉の上を、今日も人は通り過ぎていく。わたしもその一人。

いのちを終えた無数の葉が、雨に濡(ぬ)れ、風に吹かれ、地に落ちて人に踏まれ、やがて粉々に壊されて土に還(かえ)る。それを「腐葉土」ということを教えてくれた父も、この地上を去って十年…………

腐葉土、それは何よりもすぐれた肥料になるという。「腐葉土」になるには、葉がそのままの形でとどまってはならない。葉の姿はまったく消えて、土になりきらなくてはならない。それが、春の芽吹きを待つ新木のいのちを育てる足元の肥料となる。葉は死ななければ土にならない。土にならなければ木を育てる肥料にはなれない。キリストのことばが思い出される。

「一粒の麦、もし地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)

枯れ葉。落ち葉。「人生とは削り取られることだ」と言われる。肉体の衰えのことではない。枯れ葉のように、自分を日々はぎ落としていくことを言う。目に見えぬ新しいいのちが、そのときに育てられていくからである。

「わたしたちは落胆しない。たとえ、わたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされる。わたしたちの一時の軽い艱難(かんなん)は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらす。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからである。」(IIコリント4:16-18)

「神とあそぶ」奥村 一郎、10~12頁

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